「SARSの感染者が出たとき、ベトナム政府が、 日本に緊急援助を要請したのは、ファン・ボイ・チャウが反仏独立の支援を求めて来日したという歴史があるためですね」と町会長。

「おっしゃる通りです。ウィキペディアの『ベトナム』に、『日本軍が北部仏印進駐』と記載されていますが、「ウィキペディアの『仏印進駐』に、『仏印進駐とは、第二次世界大戦下におけるフランス領インドシナ(仏領印度支那)への日本軍の進駐のことを指す。1940年の北部仏印進駐と、1941年の南部仏印進駐に分けられる』という説明があります。」

「『仏印』とは、フランス領インドシナのことなのですね」と町会長。

「おっしゃる通りです。ウィキペディアの『フランス領インドシナ』に、『フランス領インドシナは、1887年から1954年まで、フランスの支配下(日本軍により一時占領された時期を除く)にあったインドシナ半島東部地域である。現在のベトナム・ラオス・カンボジアを合わせた領域に相当する。日本では仏印(ふついん)の略称も用いられる』という説明があります。」

「なるほど。それでは、日本政府が、フランスから独立したいベトナム政府の要請に答えて、フランス領インドシナに日本軍を進駐させたのですね。そういう歴史があれば、SARSによる危機に際して、ベトナムが日本を頼るのは当然かもしれませんね」と町会長。

「ウィキペディアの『ベトナム戦争』に、『ヴィシー政権統治下および日本軍進駐下における1944年末から1945年にかけてのベトナム北部で大飢饉が発生し、20万人以上、ホーチミンの主張では200万人が餓死する事態が発生する。コミンテルンの構成員であったホー・チ・ミンを指導者とするベトミン(ベトナム独立同盟)武装解放宣伝隊は「飢饉は日本軍の政策によるもの」と主張し、民衆の反日感情が爆発した』という記載もあるのですが、反対に、『ベトミンはソ連と中国共産党からの軍事支援を受けるまでは装備も乏しかったが、1946年4月には独自の軍士官学校を二校設立した。一校は北部ソンタイにあり、教官は日本軍に追われて以来ベトミンに合流していたフランスインドシナ軍の下級将校であった。もう一校は中部沿岸のクァンガイ陸軍士官学校で校長は中国共産党のグエン・ソンだが、教官は元日本軍の士官や下士官であった。このような残留日本兵は「新ベトナム人」とよばれた。日本軍インドシナ駐屯軍参謀の井川省少佐はベトナム名レ・チ・ゴといい、ベトミンに武器や壕の掘り方、戦闘指揮の方法、夜間戦闘訓練などの技術、戦術などを提供した。また井川参謀の部下の青年将校中原光信はベトナム名をヴェト・ミン・ゴックといい、第二大隊教官としてベトミンに協力した。ほかにも石井卓雄、谷本喜久男(第一大隊教官)、猪狩和正(第三大隊教官)、加茂徳治(第四大隊教官)らがいた。 日本敗戦後、ベトミンに協力したインドシナ残留日本兵は766人にのぼる』という記載もあります。」

「なるほど。ウィキペディアに相反することが書いてあるのですね。残留日本兵については、名前まで書いてあるの信頼性がありますし、SARSのときにも、日本に頼ってきているので対日感情はいいのではないでしょうか」と町会長。

「おっしゃる通りです。台湾やタイとともに、ベトナムは親日国と言われています。『民衆の反日感情が爆発した』というのは、事実ではないと思います。『民衆の反日感情が爆発した』のであれば、元日本軍の士官や下士官が陸軍士官学校の教官になれるはずがないし、仮に教官になったとしても、ベトナム兵士が教官として受け入れるはずがありません。」

「しかし、『「飢饉は日本軍の政策によるもの」と主張し、民衆の反日感情が爆発した』というウィキペディアの記載には、引用した論文か参考文献があるのではありませんか」と町会長。

「おっしゃる通りです。小倉貞男 『ドキュメント ヴェトナム戦争全史』 岩波書店、1992年を参考にして書かれています。」

「『小倉貞男』というのは、どういう人なのですか」と町会長。

「HMV&BOOKS onlineに、『1933年東京生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業。1955年読売新聞社入社。社会部、外報部、論説委員、調査研究本部主任研究員(アジア)、編集委員、サイゴン特派員をはじめ、インドシナの取材を続ける。都留文科大学比較文化学科教授を経て、現在、中部大学国際関係学部教授』という経歴が表示されています。」

2021/1/26